東京高等裁判所 昭和26年(ネ)1482号 判決
控訴人は「原判決を取り消す。被控訴人は控訴人に対し小田原市井細田三百五十一番地所在木造亜鉛葺平家一棟建坪十三坪五合を明け渡し、且つ昭和二十四年三月一日より同年五月三十一日まで一ケ月金三十二円同年六月一日より同二十五年七月末日まで一ケ月金五十一円二十銭同年八月一日以降明渡済まで一ケ月金百七十七円の割合による金員を支払うべし。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決並に担保を条件とする仮執行の宣言を求めると申立て、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実上の供述は、控訴人において「本件家屋の公定賃料額は一ケ月金三十二円のところ、昭和二十四年六月一日以降一ケ月金五十一円二十銭に、同二十五年八月一日以降一ケ月金百七十七円にそれぞれ増額されたので、当審においては右各割合に従う賃料並に損害金(昭和二十四年三月一日より同年十二月八日附契約解除の意思表示による賃貸借終了の日たる同月十八日までは賃料として右契約終了後家屋明渡済までの間は賃料相当の損害金として)の支払を求めるものである。」と述べ、被控訴代理人において控訴人主張の右賃料増額の事実は認めると述べた外、原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。
<立証省略>
三、理 由
被控訴人の現に居住する本件係争の家屋は小田原市井細田三百五十一番地木造亜鉛葺平家一棟建坪十三坪五合で、初より控訴人の所有に属し、登記簿上控訴人の長男保次郎(同人は昭和十九年七月十八日戦死し妻キン及び子幸男が遺産相続)の所有名義にかかる同市井細田三百五十四番地所在木造亜鉛葺平家一棟建坪十一坪三合六勺とは全く別個のものであること、控訴人は十七、八年前本件家屋を被控訴人の先代敦雄に期間を定めず賃貸し、昭和十八年七月二十六日同人死亡に因り被控訴人においてその家督を相続し右賃貸借を承継して以来、引続き該家屋に居住し、昭和二十四年二月迄控訴人に対し一ケ月金三十二円、毎月末日払の約なる賃料の支払をして来たこと、従つて本件家屋は控訴人が保次郎の代理人としてその財産管理の為めこれを被控訴人先代に賃貸したものであるとの被控訴人の主張を採用し得ないことは、原判決の説示する所であり、当裁判所も原判決挙示の証拠に基きこれと同一に認定したので、この部分につき原判決の理由を引用する。
ところで控訴人は被控訴人が昭和二十四年三月分以降の賃料を支払わぬことを理由として、同年十二月八日附内容証明郵便で被控訴人に対し、同年十一月分までの延滞賃料(但し同年六月一日以降は増額された公定賃料一ケ月金五十一円二十銭の割合による)合計金四百三円二十銭を十日内に支払うべく、その支払なきときは賃貸借を解除する旨の意思表示を為し、該書面はその頃被控訴人に到達したけれども、被控訴人は右催告に応じなかつたので本件賃貸借は同月十八日限り解除終了したと主張し、被控訴人は右書面到達の事実のみを認め、賃料の延滞並に解除の効果を争うので以下この点につき審究するに、成立に争のない甲第一、第九号証、乙第一ないし第四号証、原審並に当審における証人石川キンの証言及び被控訴本人尋問の結果と原審における控訴本人尋問の結果の一部を綜合すれば次の事実が認められ、控訴人の挙げる証拠にしてこの認定に牴触する部分は採用することができない。即ち訴外石川キンは、公簿上亡石川保次郎(控訴人の長男でキンの夫)の所有に属する小田原市井細田三百五十四番地所在の前掲家屋は自己及び長男幸男において保次郎の遺産相続により取得したものであつて、これが被控訴人の居住する本件家屋に該当するものと信じ当時住居に窮していた為め、自己が所有者なることを理由として強いて本件家屋に入居しようと試みたが被控訴人より拒否されたので、昭和二十三年十一月八日小田原簡易裁判所に被控訴人を相手方として室明渡並に賃料支払に関する借家調停の申立に及んだこと、被控訴人の父敦雄は本件家屋の賃借当初よりこれが同市井細田三百五十四番地にあるものとばかり信じ、本件家屋で出生した三男敏郎の出生届に当つても井細田三百五十四番地において出生した旨届け出た位であつて、従つて被控訴人も父の代より右同様に深く思い込み、自家の表札にも三百五十四番地と掲げていた関係上、前記調停に当り石川キンより公簿上三百五十四番地所在家屋が同人及び幸男の所有なる旨の証明書類を示されるに及んで、同人等が遺産相続により正当に本件家屋の所有権を取得したものと信ずるに至り、「家主なら致し方がない」として、已むなく調停委員会の調停に応じて昭和二十三年十二月一日限り本件家屋内三畳一室をキン母子の為め明渡すことを承諾し、同年十一月二十九日その趣旨の調停が成立し、キン母子はこれに基き本件家屋に被控訴人と同居するに至つたものであること、なお、賃料については調停条項中に特に明記してなかつたが、家屋所有者で従つて賃貸人と認められる石川キンに支払うのが当然であるとし、昭和二十四年二月分以降同人に対し賃料の支払をして来たところ、控訴人より同年十二月八日前記賃料支払の催告を受けたので、被控訴人はキンと相談の上催告所定の期間内たる同月十二日催告にかかる同年十一月分までの賃料全額を横浜地方法務局小田原支局に供託したこと、並に右供託は控訴人と石川キン等との間に本件家屋所有権の帰属につき争があり、従つて正当に家賃を収取する権利が何れにあるやを確知し難いことを理由として為すべき手筈のところ、書類の作成を委嘱された司法書士の誤解により、過つて債権者の受領拒絶を供託原因とし、且つ供託物を受取るべき者を控訴人と指定して供託手続が為され、控訴人にもその旨の供託通知が為されたこと等の事実を認めることができる。被控訴人は訴外石川キンに本件賃料の支払をしたのは、同人が本件家屋の所有者たるに疑なく、従つて正当に賃料を収取しうる権限を有するものと信じたが為めであつて、右は即ち賃料債権の準占有者に対する支払として有効と認むべきであるから、これにより弁済の効力を生じ、前記催告当時賃料の未払は全然存しなかつたのであると主張するけれども、成立に争のない乙第二号証の記載及び原審における被控訴本人の供述によれば既に石川キン等に対しては控訴人より三百五十四番地所在家屋の所有権が控訴人に属することを主張して訴訟が提起され、且つ本件家屋についても控訴人はその所有権に関するキン等の主張を絶対に否認していることは、被控訴人においても当時これを了知していたものと認められるので、かかる事情の下において被控訴人が前記の如き事由に基きキン等を本件家屋所有者と誤信するに至つたからとて、キン等がこれにより当該賃料債権の準占有者となるものとはいい難く、被控訴人の前記主張は採用の限りでない。然しながら被控訴人は父敦雄の代より多年本件家屋を賃借し、本件問題の起るまで未だ嘗て賃料の支払を延滞したことなく、石川キン等を本件家屋に同居させ昭和二十四年三月分以降の賃料をこれに支払つたのも決して自ら事を好んで石川家紛争の渦中に投じた為めではなく、一に三百五十四番地に所在するものと固く信じていた本件家屋につき、石川キンより公の証明書類を示されて同人を正当の所有者で従つて又賃貸人なりと誤解したことに基因し、キンの申立に基いて成立した調停の趣旨を実行したに過ぎないことは前説示のとおりであつて、その間の経緯よりすれば一概に被控訴人を責めることはできないのである。即ち若し被控訴人にかかる誤解がなかつたか、又はその誤解が解消したとすれば、それにも拘らず被控訴人において石川キンに与して正当の家屋所有者たる控訴人に対し殊更ら賃料の支払を拒否するものとは考え得られない訳である。それ故かかる場合に処し、控訴人としては家族間の紛争の累を濫りに他人に及ぼすことを避ける為め被控訴人に対し契約解除の前提たる賃料支払の催告を為すに先立ち、市役所備付の公図その他の適確なる資料に基いて地番の異同を説明し、家屋所有権の帰属に関する被控訴人の誤解を解くに足る十分の手段を講じ、その誤解たることを納得させた上で賃料の支払を促す方途に出ることこそ、相互の信頼を基調とする賃貸借関係の要請する信義則に適合するものというべきである。更に又、賃借人は賃貸借の目的物につき安じてこれが使用収益を為す権限を有し、他より賃借物に対し権利を主張し賃借人の使用収益に制限を加えんとする者あるときは、賃貸人において賃借人の受くるかかる妨害を除去すべき義務を負うものであるから、石川キン等が本件家屋につき所有権を主張して室明渡並に賃料支払に関する調停申立を為した際、控訴人は進んで利害関係人として調停に参加し調停委員会において事案の真相を説明して調停が不当な結果を齎らすことのないように努むべきは当然であつたのである。然るに控訴人はこの間賃貸人として為すべき何等適切なる措置を採ることなく(控訴人は前記調停の際裁判所の庭で被控訴人に対しその居住家屋敷地は井細田三百五十一番であることを告げたに止ることは原審における被控訴本人尋問の結果によりこれを窺うことができる)、前記の如き特殊の事情によつて生じた被控訴人の賃料不払を理由に直ちに契約解除の挙に出たのであるから、右解除権の行使は信義に反し、これによつては契約解除の効果を生ずるに由なかりしものと断ずるを相当とする。然のみならず、控訴人の催告にかかる延滞賃料は被控訴人において催告期間内にその全額を供託したことは前認定のとおりであるから、これにより賃料債務は消滅し、契約解除の効果は発生するに至らなかつたのである。即ち、前記事情の下においては、被控訴人が、控訴人と石川キン及び幸男の何れが本件家屋の所有者であり、その何れに対し賃料の支払をするのが正当であるか(若し石川キン等が所有者であり、控訴人の家屋賃貸の権限を否認するときは、控訴人に対する賃料の支払は石川キン等に対抗できない結果となる)を確知できなかつたとしても、それは世間普通の者としては無理からぬ所であつて、これが判断を為し得ざるにつき被控訴人に過失ありとするのは酷に失すべく、被控訴人は民法第四百九十四条の規定に基き、賃料額に相当する金額を供託して債務を免れ得るものと解するのが相当である。然るところ本件において被控訴人は債権者を確知できぬことを理由として右の供託を為す手筈のところ、書類作成に当つた司法書士の過誤により、債権者たる控訴人が弁済の受領を拒絶したことを原因として為すに至つたのであるけれども、そもそも供託の本旨は債務者が債権者の為め弁済の目的物を供託所に寄託し、債権者をして供託物引渡請求権を取得せしめることによつてその責を免れしめることに存し、右の如き手続上些小の過誤はあつても、控訴人が債権者として供託物引渡請求権を取得することには渝なく、然もこれによりその権利行使の上に何等困難を加重するものでないから、本件供託は要するに民法第四百九十四条所定の供託原因が存し且つ同条の規定に基いて為された供託として有効であり、被控訴人は賃料債務を免れたものというべきである。
然らば賃貸借契約の解除を原因とする本件家屋の明渡並に解除後における賃料相当損害金の請求は失当であり、又供託にかかる賃料額に対応する請求部分も理由がないこと明かであるが、昭和二十四年十二月一日以降同月十八日までの間における賃料は未済につき一ケ月金五十一円二十銭の割合によつて算出した金三十円七十二銭は被控訴人よりこれを控訴人に支払わなければならない。よつて控訴人の本訴請求はこの範囲においてこれを認容すべく、その全部を棄却した原判決を変更すべきものとし、民事訴訟法第三百八十六条第九十六条第九十二条に則り主文のとおり判決する。
(裁判官 薄根正男 岡崎隆 奥野利一)